英国暮らしブログ




20161013

ベドラムの歴史とこれから

 

ユーストン駅から徒歩5分ほどにあるウェルカム・コレクション(The Wellcome Collection)で、イギリス最古の精神病院についての展覧会が行われていた。

ウェルカム・コレクションは医学とその歴史を通じて現代における考えを定義する一般向けの催事場である。これまでにもセミナーも含め、何回か足を運んだことがあるが、毎回興味のわく題材で、平日の夕方でも仕事帰り立ち寄る人々をよく見かける。

今回の展覧会は英国の最も古い精神病院の一つ「べドラム」がテーマだった。配布されたしおりには以下のようなことが書かれていた。

私たちの精神的健康は医学的、心理学的、社会的、それから環境に大きく影響される。正気と狂気という状態の境目ははっきりとしているわけではなく、これについてもまた広く討論されるところでもある。古代の保護施設は、宗教的な避難所でもあり、個人の隠れ家的存在ともいえた。やがて精神病という言葉が生まれて以来、施設は訪れる人に以前とは異なった対応と治療を行う場所と変化していった。施設の歴史とともに医者をはじめ、患者、宗教的指導者、芸術家、社会問題の解説者や政治家が、治療の新しい試みや発見に携わった。


私個人はベドラムの存在を、ヘンリー・パーセルを始めとした17世紀後半の作曲家による声楽作品で狂気の歌の流行を通じて知った。狂気の歌シリーズは音楽作品として言葉、詩の扱いがより豊かになり、大胆な演奏と表現のきっかけを作ったものだと言える。それに加えて精神異常についての社会的考え方を啓発する役割も果たしていただろうと思われる。

展覧会は、歴史的な資料や、映像、また患者のものの考え方と分析をつづった文章やイラストなどがあった。それらを一つひとつ注意深く見て、読んでいくと、まさに精神病という定義と分類に自分自身の心の中に潜む物の感じ方や、世の中に存在する様々な現象など、が思い浮かんだ。

展覧会に足を運んだ人々が、どのような心理と興味で訪れ、また生活環境に生きているのかは分からない。しかし、ベドラムの歴史を通じて、現代社会における保護施設の概観と自治体の今後の事業計画などの展示には多くの貴重な情報が詰まっていた。

個人の存在価値や、感覚、生き方を問われる空間にひたっているうちに数時間が過ぎ、会場をでた。

帰り道、電車の中でも現実と想像の世界が混ざったような感覚にとらわれた。

 





2015年12月20日

ロンドン・ナイト・バス その1

 

クリスマス前の最後の仕事を終えて、イギリスから日本へと戻る前の日のことだった。午前930分の飛行機だったので、最寄りの駅で念のため地下鉄の時刻表を確認することにした。駅員に「ヒースローまでは一時間半くらいでしたよね?」などと質問するうちに明日は日曜日なので、始発の時刻は2時間ほど後になっていて、地下鉄では間に合わないことが分かった。「どうしよう!」と思わず声にすると、黒人の駅員2人が、「それなら、ナイト・バス(深夜バス:深夜から明け方にかけて運航するバスのこと)を使えば、たった3ポンドほどでヒースローまで行けますよ。」と明るく応えてくれた。以前に彼らもナイトバスで空港まで行ったそうだ。


実は、5日前に仕事でスペインに行く際に、3時起きでナイトバスを使い、ガトヴィック空港まで行ったのだが、まさかもう一度お世話になるとは思わなかった。駅員に更に詳しくバス停や乗り換えについて教えてもらい、メモまでもらって帰ってきた。

 

当日は午前3時過ぎに起き、4時前のバスで、まずトラファルガー・スクエアまで30分強乗ることになった。前回と同じく、こんな時間にバスを利用するのは私くらいだと思っていたが、今回もまた、ほぼ毎回バス停で人が次々に乗ってくるのには驚いた。小さな旅行バッグを持った2人づれ、手ぶらの若者たちなど、それぞれ違った目的でバスに乗り込む人々がいた。英語でのコミュニケーションがうまくとれないロシア人らしき若者が、同じ質問をバスの運転手になげかける様子や、24時間開いているトルコ料理屋さんでお茶を飲む人々をバスの中から見ながら、半分自分は今現実ではない世界にいるような気分にもなった。普段は眠っている時間だから余計そう感じたのもかもしれない。

ロンドンのバスは何かと途中で行き先が変更されたり、終点まで行かずに降ろされることなどがよくあるので、とにかく無事に目的地までたどりつくことを願っていた。

このバスの後に乗り換えがあったので、トラファルガー・スクエアにバスが到着する寸前に、バスの運転手に次のバス停の正確な場所を確認した。


彼の指示してくれたバス停は私が考えていたバス停の手前で、より近い場所にあった。バス停を確認できたときにはすでに目的のバスが到着しており、もう間に合わないと思った。

ところが、よく様子をみてみるとゆっくりと人が乗り降りしている。

自分でも信じられないが、大きなスーツケース一つとバックパックにパソコン、それから肩にもう一つ小さなバッグをかけながら、バスに向かって全力で走ってどうにか乗ることができた。

「ヒースロー行き」、と示されたダブルデッカーがいつもより光って見えた。



 

ロンドン・ナイトバス その2

 

N9 と呼ばれるナイト・バスの中は多くの人が同じようにスーツケースを抱えながら、既に一階席はほぼうまっていた。一番前の席が空いていたので座りこむと、隣にヨーロッパ人と思われる20代くらいの女性が座っていた。「このバスはターミナル2には行くのですよね?」「私も同じことを聞こうと思っていました。」などと会話をした。ターミナル5行き、と示してあるので、皆同じような疑問を感じていた。今度のバスの運転手はあまり説明をしてくれないようだ。

しばらくすると杖をついた年配の女性が乗ってきた。このときには既にバスは満員で身動きがとれないくらいだったが、「席にすわりませんか?」と声をかけてみた。女性は「いいのよ、スーツケースに座るから」と遠慮をしたが、「ちょっと席を交代しますね」と周りの人に聞こえるように声をかけて座ってもらうようにした。「親切にしてもらって嬉しいわ、このあたりには親切な雰囲気が漂っていたわ」と繰り返しありがたい、ありがたい、と言う彼女はポケットからチョコレートを取り出して、私に差し出した。となりの男性にも渡した。子どもへのご褒美のようで、思わず二人で笑ってしまった。

数日の旅行で来ていたアメリカ人の若者達が、会社の同僚からのメイルについて大きな声で話しているのが耳に入ったり、先程の年配の女性がそろそろ席を交代しましょう、と声をかけてきたりする中を、バスはひたすら目的地に向かって進んでいった。バス停で待つ人々の中には私たちの乗るバスが満員のため、入口に人が入らなくなり、出口からのることになったりしていた。あまりに乗客が多く、時間が迫っているときに、バスの行き先を尋ねるお客に対して、「悪いけど、とにかく俺はヒースローまで行くんだよ!」と半分怒鳴る運転手にひやひやした。乗客にしてもこのバスは15分毎にしかこないので、乗り遅れると大変なのだ。

1時間半ほどしてから、ヒースロー空港のバス停にたどりついた。何もアナウンスもないので、最初に相席した彼女と一緒にターミナル2まで行くことにした。互いにどこに向かうのか、ナイト・バスは初めて、などど早歩きでおしゃべりしながらそれぞれのチェックイン・カウンターの前で別れた。

今回の体験でロンドンのナイト・バスがこれだけ多くの人に利用され、市民にとってなくてはならない交通手段だということを知った。乗客の服装、カバン、会話から普段接しないような人々の生活、日常の様子が伺え不思議な体験をした。暗闇の中を走るナイト・バスは今日もロンドンで活躍しているのだろう。

 



2015年11月7日

                                                                                       フィギュアスケートの世界



先日、フィギュアスケートのグランプリ・シリーズカナダ大会男子の部をテレビで観賞した。シングルとフリーの得点の合計で、日本人では羽生結弦選手が、2位、村上大輔選手が3位に入賞した。

スポーツは他の選手と競うので、結果として順位や勝ち負けが示されるが、同時に選手が自身と向き合い、各々の課題に向かって挑戦していくものだと思う。

ロンドンの大学院生時代に、スポーツ心理学と音楽家の心理を比較した授業を受講した。日々の練習内容、緊張感の分析、本番に向けての心構えと体調管理、集中力、イメージトレーニング、自己効力感など、演奏家の心理と共通する点が多くみられ、とても興味深かった。


選手がスケートリンクの中央へ出ていくところから演技は始まっており、音楽と溶け合って滑りはじめる。観る側は、例え専門的な技術面の難しさは理解していなくと
も、作品に対する思いと表現力、そして音楽と一体になった動きすべてに意味のある演技に自然と引き込まれる。羽生選手の演技を見ていると一つ一つの手の動かし方や、技と技の間の滑りも、まるで身体が音楽を奏でているような途切れない動きで一つの世界を作っているように感じる。

音楽を演奏する事は、音が鳴っているときも鳴っていないときも、人が絶えず呼吸するのと同じように作品の表す情景や絵を想像させるようなものなのだと思う。

これは演奏、または演技をする側の表現力や、創造性、技量、集中力、熱情などが全て影響する。演じる側は、観客と作品と自分自身に向かいながら、日常から離れた空間を創造する。


幼い頃に、スケートリンクの中央に立ち、鮮やかな色の衣装を身に纏い、360度観客に囲まれながら踊るアイススケート選手に魅了されたのを今でも思い出す。

一度はぜひとも実際に観賞しに行ってみたい。







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ロンドンの気候と人々

 

今年の夏、ロンドンを再訪した。初めてのロンドンでの夏を迎えた15年ほど前、東京に比べて涼しく、汗をかくことがまれだったことを思い出した。東京のような梅雨の時期は特になく、比較的日差しの強い日が6月から8月くらいまで続く。夕方になると気温は下がり、日の暮れるのも夜の9時過ぎになるのでつい遅くまで外出していたくなった。

 

今年のロンドンの7月上旬の気温は比較的高く、晴天が続いた。公園はピクニックをする人々で賑わう。昼間はビキニ姿で日光浴をする若者たちや、バーベキューを楽しむ家族連れ、夜になると学生たちが集まって話し込んでいたりする。夜まで明るいので、子ども達が「なぜ昼間なのに眠らなければいけないの?」と問いただすので困ったという話もよく聞く。

 

夏が過ぎ去ると、秋は、数週間紅葉を楽しむ程度にやってきて、11月下旬から2月にかけてはどんよりと暗い日々が続く。この頃冬時間になり、時計の針が一時間早まることもあって、夜が長く感じられる。ロンドン留学一年目にはこの暗さにびっくりしたが、気候も住めば都で、曇り空が心を落ち着かせるときもあり、そういう時は家でもっと練習したり、ヨガ教室へ行ったり、美術館にでかけたりして時間を使った。

2月に入るとロンドン郊外には雪が降ることもあり、そのたびに電車が止まる。

毎年起こりうることなのだが、雪には抵抗せずにそんな日は、学校や職場もお休みになることがある。一度どうにか職場にたどり着いたときには、授業はなくなり、よかったら一緒に雪あそびに参加しないかと職員に誘われた。

3月に入ると、少しずつ日が長くなり、春の訪れを感じさせる。4月から6月にかけてはブルーベル、菜の花、ポピー、サクラなどが咲き始め、公園や丘、森はとたんに華やに色づく。暖かい日は季節には関係なく半そでになる人も多い。

 

イギリスの気候で特徴的なのは、1日のうちで天候がよく変わる。雨が降ってもさらっとしていてすぐに止み、からっと晴れる。

天候が人々の気分に影響を及ぼしたり、一日の生活リズムを作ったりする。またそれぞれの土地の人々の暮らし方、生活スタイル、性格が大きく左右される。一年を通して一つの土地に住むと、空気と景色と気候を体が覚えて、次の年からは何事にも順応しやすくなる。季節ごとの気候を楽しみ、空や雲を見る時間を楽しむ毎日。これが心に余裕を生む生活なのだと感じる。












2014年4月13

ロンドンマラソン


快晴の日曜日、ロンドンマラソンが開催された。ちょうど時間が空いていたので

友人と見物に行くことにした。朝からテレビ中継を見ながら出かける支度をしていた。マラソン大会にはエリートと呼ばれるプロフェッショナル達、車いすなどを使って走るDisable(障害者)、それからFun runといって楽しみで走る一般の人達(面白いコスチュームなどを着る人もいる)などに分かれ、それぞれStagger(時間差)でスタートを切る。テレビ中継では、ここ数年なんと編み物をしながらマラソンをしてきた、という女性がいて、ギネスブックにも載ったようだ。アマチュアで出場する場合、チャリティー協会に届け出をし、自分の走った距離分を義援金にすることができる。中には競技に使用したコスチュームを寄付する人もいるそうだ。

 

ロンドンマラソンが最初に開催されたのは1981年。ニューヨークマラソンに出場し、感銘したイギリス人が発起人になって始まった。フルマラソンを盛り上げる雰囲気と観客の応援はランナーが不可能と思われるような距離をも完走する力になる、とコメントしている。

 

マラソンコースはロンドン市内を回るのだが、まずグリニッジからスタートする。5キロ地点でテムズ川の一方の岸にたどり着き、そこから河の流れにほぼ沿って左折する。10キロ地点でグリニッジ大学の周辺に着く。その後はDLR(ドックランズ線)沿い、また河の淵をほぼなぞるように走り、20キロ地点でちょうどテムズ川を渡る地点に達する。タワーブリッジを渡ったあとはハイウェイを東方面に走り、それからやや南東に距離を延ばす。Island GardensをいうDLRの駅を過ぎたあたりで、今度はもと来た方面を折りかえす。(ここで私達観客は二度選手達をみることができる!)ゴールはバッキンガム宮殿近くのThe Mallで終わる。



私達はTower Bridgeの駅で下車し、そこから人ごみの中に紛れながらコースのロープがはってある先頭にたどり着くことができた。(イギリスでは背が高いほうではないので

心おきなく前に立ってみていた。)ちょうど目の前にブラスバンド奏者が20名くらいいて、陽気な曲を吹いていた。イギリス人の選手が近くにくると国歌やイギリスの民謡などを演奏していて分かりやすかった。話題のイギリス代表、ソマリア出身のMo Farah(モハメド・ファラー)を見るために多くの人々が一時間くらい前から最も見やすい場所を確保しているようだった。実際本人が通り過ぎた時には大きな歓声とあまりの速さに写真をとる余裕もなく終わった。日本人の選手も数人見えた、全ての選手にまわりの観客が惜しみない声援を送り、選手はほぼ始めから終わりまで応援されて走ることができる、という、冒頭で発起人の言った素晴らしい雰囲気、というのはこういうことなのだなと思った。

 

つい最近地元で5キロのロードレースを終えて非常に気持ちのいい体験をした私だが、この日の雰囲気を味わい、将来フルマラソンに出場したいという気になってしまった。







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豊かな暮らしとは
 
夏のロンドンでのコンサートに向けてベンジャミン・ブリテンのOn this Island(この島で)について調べていた。この曲集は五つの歌曲から成り立っている。詩の内容は、それぞれ生と死、社会風刺、自然などがテーマになっている。ブリテンと詩人のオーデン平和主義者でもあった。
 
詩を何度も読み、毎日歌っているがそのつど違った場面や空気を感じ、楽譜を読んでいると、どきっとさせられるような和音が連続しているのだ。
練習が終わって公園をジョギングしているときもまだ、曲が頭になり続いていた。
その歌曲の中で何事が起ころうとも時は流れ、人は生き続ける。というような内容の詩と音楽が私の心臓の音と足のリズムとが重なり合い、複雑なビートを体で感じていた。
自然にに囲まれた公園はとても気持ちがよく、鮮やかな緑色の木々がとても美しかった。
生活の中で人々が最も大事にしたいと考えるものは様々だが、目に見えにくいもの、また直接自分の利益にならないものは軽視されがちだと感じることが多々ある。どんな時でも自分をまず優先してしまうのは、他人と自分との間に大きな壁を作る要因だと思う。
 
「人は人と結びついて生きている、これは避けられない事実だ」というような内容の文章を中学生のときに読んだことがある。住みよい社会によって人は生き生きと生活できるはずで、個人個人が競争しあい、社会が経済的に豊かになっただけでは日々の生活は本当の意味では潤わないと思う。
 
人々が日ごろから他人とコミュニケーションを積極的にとり、言葉を交わしあい、社会全体がまとまるように時間をかけて作っていくべきだ。
 今現在の社会全体の流れ、将来のあり方、視野の広い国際的な考え方を一人ひとりが目を見開いて行動しなければ、間延びした時間だけが刻々と過ぎてゆくだけだと思う。
気がつくといつもより一周多く走っていた。気持ちか、体かが自然に動いて最後のスパートをかけた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2013年5月15日
東京大薪能
 
 
東京都庁舎の都民広場で行われた野外での能を観に行った。

この企画は日本カンボジア友好六十周年記念の一環で、それぞれの国の伝統文化を2日間に分けて鑑賞するというものだった。
舞台を観る前に講座があり、能の特色が説明された。司会者から「どうぞ、学んだことは、積極的にメモして帰ってください」と一言あって、プログラムとボールペンが配布されたので、印象に残ったことを書きながら講義に参加した。着いたのが、ぎりぎりの時間だったので、空席は既に無く、立っているしかなかった。「立ち見で3時間はきついなあ」と正直最初は思った。

能の特色の1つといわれる、「省略の芸術」とは、「無駄なものを省いた最小限の舞台設定、振り付け、表情の芸術」という意味である。
演技でも心のうちにある感情を表面的に表す必要はない。見る人もより舞台に積極的に参加して想像力を働かせて鑑賞することが求められる。
観終わったあとに少し疲れたなあ、と感じるのはそういうわけなのかとも思う。
能面の角度によって、人物の感情を読み取ることは、舞台を見慣れてくると、より自然にできるようになる。

今夜の演目は井筒(能)、続いて茶壷(狂言)、最後に土蜘蛛(能)。
舞台の背景や、小道具、大道具、登場人物の動き、また地謡と笛、小鼓、大鼓のかけあいもがシンプルなだけに状況を追っていないと、いつの間にか、物語が進展していることもある。
能の心は茶道からきている、と説明があったが、心の表現の描写が非常に細やかで、また微妙なところ、表情で感情を表すことをしない、という芸術作品は今の日本人の生活に今でも反映されているところはあると思う。もちろんすべての面にではないけれど。

立ち見で2時間ほど経ってから、丁度階段に座るところを見つけて、移動した。やはり説明どおり、能、狂言、能と観ると、心の満腹感も得られ、充実した夜だった。

 
  
 2013年5月3日
 

風をあつめて Gathering the Wind

 

先日、新国立美術館で行われた国展に足を運んだ

国展の成り立ちは、1918年(大正7年)文展から自由な制作と発表の場を求めて、京都の青年日本画家・小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰、入江波光らは在野としての「国画創作協会」をおこしたもので、その通称を「国展」とした、という。

 

彫刻の展示室で、知り合いの彫刻家、池田秀俊さんの作品“風をあつめて”をご本人と鑑賞することができた。女性がドレス姿で立ち、右手を胸にあてている彫刻だった。ヒノキを使っていた。

実はこの作品、私が数年前に行ったコンサートに池田さんがみえて、その時のドレスと髪型からイメージして作られたもので、このようにしてお目にかかれるとは、とてもうれしい気持ちがした。

自画像とは違うので、私そのものを見ているというわけではなく、むしろ歌を歌うときに感じる雰囲気そのものが伝わってきた。

 

「風をあつめて、というのは、周りに集まった風の動きをドレスの裾から、腕に伝えて、モデルにあつめる、というイメージだ」とご本人が説明してくれた。

「確かに歌うときは、歌詞から生まれる想像と感情を周りの空気によってあつめて、自分の世界に人を招待する、という気持ちで演奏しますね。」と私も答えた。

会場はほかにもさまざまな彫刻が展示されていて、それぞれのスタイルと雰囲気にあふれ、濃厚な空気が流れていた。私は彫刻にそれぞれについている題名から、作品がどのようなことを訴えかけているのかということを読み取るような鑑賞をしていった。彫刻の表面がなめらかだったり、硬そうに見えたり。近くにいってみると、同一の材質でも表現の可能性と自由さが分かり、より鑑賞を楽しむことができた。

 

池田さんの作品は以前から鑑賞させて頂いているが、彼の作品の持つ雰囲気は、彫刻を目の前にしなくても、風のようにこちらに伝わってくる。何か香りのような存在感があって魅かれる。

いろいろ見て回ったあと、最後にもう一度、彼の彫刻を見て美術館を後にした。

池田秀俊さんのその他の作品は以下のリンクから↓

 http://www.kokugakai.com/cyoukokubu/ryakureki/ikedahidetoshi.html

 

 

 
 
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Edward Steichen 写真展

 

世田谷美術館で行われていたエドワード・スタイケンの写真展を観た。写真家、画家、また美術館のキュレイターでもあったスタイケン。1879年にルクセンブルクで生まれ、2歳の時家族でアメリカに移住。今年は彼の没後40年である。

今回展示された写真は彼が192030年代のポートレート200点を紹介したものだった。

1923年にスタイケンはファッション雑誌VogueVanity Fairを出版するコンデ・ナスト社の主任写真家となる。

被写体になっている俳優(グレタ・ガルボ他)、モデル、音楽家(ホロヴィッツ、バーンスタイン他)、小説家(シンクレア・ルイス他)政治家の存在感とスタイケンの構図の取り方、光の加減、被写体のまわりの背景などが互いに引き立てあっていた。

特に印象的だったのはスタイケンと親しかったモデルのMarion Morehouse10点ほどの作品だった。スタイケン自身、彼女は着る服に対してそれほど興味を持ってはいなかったが、一旦それらを身にまとうと、それぞれの服を彼女が着るために作られたかのように着こなすのだ、と言っていたという。写真のなかのモアハウスはエレガントで、自信に満ち、そしてどの服を着ていてもその心地よさを出していた。

展覧会を鑑賞した後、美術館からでて木々に囲まれた砧公園を歩きながら、写真にうつる美の余韻を楽しんだ。

 

 
 
 
 
 
 
 
2013年2月15日
 

「宇宙から見た地球と宇宙への道」

山崎直子さんの講演を聞いて

 

新宿の小学校で環境教育の推進可能な社会つくりのための環境教育の推進というテーマの研究会があったその中の元JAXA宇宙飛行士の山崎直子さんの講演会に出席した

内容は彼女が宇宙飛行士になるまでのこと、宇宙船の中の実際の様子、宇宙から見た地球について、といった内容だった。

山崎さんのとても分かりやすい説明、随所随所に内容を簡潔にまとめた一言、その中に彼女の思いや主張が感じられる話に1時間半はあっという間に過ぎ去った。

印象に残った言葉がいくつかあった。その中の一つに、ちいさな経験が積み重なって後の人生の糧になると内容の話があった。言い換えれば人生の中で無駄な経験というのはない、とも考えられるのかな、と私は思った。

宇宙船の中は無重力なので、中にいる人たちは逆さになったり、斜めになったり、様々な体勢で生活する。壁に垂直になって寝ることも普通だと聞いた。そのことで、物事をとらえるのも様々な角度から考えることができるのだと気がついた、と言う。

一見さらっと話す、山崎さんの体験談は私たちの普段の生活にも当てはまる考え方が沢山含まれていた。

最後に宇宙ステーションから見た地球の写真を見せてもらった。きれいな青色をした地球が浮かび上がっていたのを見て、「本物?」と言いそうになったくらい美しく、魅惑的に見えた。富士山が浮かび上がっている日本列島の写真もみることができた。

これらの写真が撮られた場にいた山崎さんは「地球を客観的にみることができた」と言っていた。彼女の口からでるこの言葉には重みと説得力があった。

「これから先、50年くらいの間に宇宙旅行もどんどん身近なものになるでしょう」と山崎さんが話していたが、今日のこの講演で、宇宙は私の行ってみたいところのリストに確実に入った。

 
 
20131年2月2日
 
「山川菊栄ドキュメンタリー映画上映会&講演会」に参加して
 
東京の多摩市聖蹟桜ヶ丘にある関戸公民館のホールで、山川菊栄の思想、活動の歴史をまとめた映画の上映、講演会に参加した。
 
山川菊栄(1890-1980)は日本の評論家、また婦人問題研究家として多くの著書を出版した。
また日本で初の女性による社会主義団体である赤瀾会の発足メンバーでもあった。
 
映画のなかでは、彼女の写真や、彼女と社会的な運動に参加した人々のインタヴューが含まれていて、その時の様子や雰囲気がよく伝わってきた。
 
映画の後で、和光大学名誉教授、また山川菊栄記念会代表の井上輝子さんの講演会があって、映画の製作にあたっての準備や、その趣旨などを聞かせて頂いた。
 
私が印象に残ったのは、山川菊栄の生き様が前向きで、どんな状況であっても、常に何か行動にでる、という勇気と決断力の強さだった。
西洋の本の翻訳をしているなかで、女性の社会的立場についてや、権利について考えはじめたという。 
 
井上輝子さんの説明のなかで、山川菊栄の考え方はこれまで自分の経験からの主義、主張をする人々とは少し違っていた、というところがあった。彼女には客観的な判断力があり、それぞれの主張や主義を対立させるのではなく、まとめる力のある人であった、という。
 
自分自身を前面にだすという形ではなく物事を論じる場合、冷静な判断力と知識、洞察力が必要であると思う。彼女を知る人のインタヴューでは、「山川菊栄さんの方はおおざっぱで、ご主人((山川 均)はしっかりものだった。」という場面があったが、私はそれを「やるべきことをやるべき時に行い、不必要なことはしないし、考えないという人だったのではないか」というように捉えた。
 
正直言って第2次世界大戦のさなかに生き、人生の最後まで後世に残る書物や女性問題に関する研究の後進を育てたという人がいたということに感銘した。
それと共にこれからの私達は個人個人が沢山の社会問題に気がついて、判断し、主張していかない限り世の中は変わっていかないのだ、とメッセージを残してもらったような気がした。 
 
この講演会をきっかけに少しだけ、フェミニズムについてもまた考えるきっかけになった。今度、是非藤沢にあるという彼女の記念館に足を運ぼうと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2013年1月27日
 
 

何を着るかは自分次第

 

 

 

昔の写真を整理していたら、大学院生の時に寮生活をしていた頃の写真が1枚でてきた。「あれ、このセーター、今自分が着ているのと同じだ。」と気がついた写真のなかではいていたタータンチェックの巻きスカートはなんと高校時代に表参道の古着屋で買ったものだった。たまに友達に「君、スコットランドファンなの?」と冗談で言われたりして、そのたびに「これはもう10年以上前に日本で買ったのよ。」と答えていた。

 

冬のコートは母が20代のころ購入したという紺色のウールのコート。その色と形(肩幅が狭く、袖も短め、膝下丈の身体にぴったりした1960年代風のデザイン)は、イギリス人の多くの友達から「色といい、形といい、あなたにぴったりね!」と言われて、いい気分になったこともあり、気に入って今でもずっと愛用している

日々の生活に追われ、洋服を買いに行く、という時間がないのもあるが、(お金もない、と付け加えたほうがいいかも)そんな中でもどんなものを着ているか、というよりは着こなしているかで、周囲の目を引くのだということに気づいた。

 

周りの友達を見ていると普段の生活では、ジーンズにTシャツ、ノーメークといった感じが大半。ある友達は脇に穴の開いたセーターを私に見せて、「でもこれ、まだ気に入ってるの。」といいながらそのまま着ていた。歌の仕事のリハーサルなどでもいつもメイクばっちりできめスーツを着て現れる(特にソプラノ)のは10人に1くらいいる程度。

 

ところが、誕生日会、クリスマスのディナー、あるいは講習会などの最後の夜のパーティーといった機会には、ロングドレスに、真っ赤な口紅(とても似合っている)で現れる。

 

そういえば、ロンドンに来て初めてのニューイヤーイヴパーティーに誘われた時のことを思い出した。招待してくれたのはその頃の私の歌の先生(トリニティカレッジのヘッドのリンダ・ハースト)。彼女は気を利かせて「一応知らせておくけれど、女性はイヴニングドレスで、男性はスーツで来ると思うわよ。」と事前に私に一声かけてくれた。

手持ちのドレスで出かけたところ、もとスウィングルシンガーズや、BBCシンガーズの人たちなどがテーブルを囲んでいた。

 

11時を過ぎた頃、「そろそろニューイヤーの花火を見にでかけましょう。」と声がかかり、女性達はさっと席をはずした。私は何故か直感的に一緒についていったほうがいい気がした。案の定、すばやくドレスから普段の服装に着替えていた。「真夜中にテムズ川まで行って花火の打ち上げを眺めるにはドレスは寒すぎるし、第一、実用的ではないわね。」と話しながら。男性たちは「Ladies, 君達はどっちでもきれいだよ。」なんて言っていた。

 

ロンドンの地下鉄で黒人の高校生が何人か乗ってきた時のこと。制服姿で、一見皆同じ格好かと思ったが、一人ひとりの髪型は様々だった。髪の質、長さ、顔の形にあったスタイルが、それぞれ個性的でとても印象的だった。

 

服装で独自の生活スタイルと、個性があらわる。何を着るのかは自分次第。

 
 
 
2012年12月30日
 
バレエになったピーターラビットと仲間達

 

先日、ロイヤルバレエ団出演の映画のヴィデオ、Tales of Beatrix Potterを鑑賞した。1971年の作品で、フレデリック・アシュトンの振り付け、監督はレジナルド・ミルズ。

場面は湖水地方の田園風景から始まる。

 

登場人物(登場動物?)はウサギ、ネズミ、ブタ、キツネ、カエル、ネコ、アヒルなど。

それらを演じるダンサー達はマスクと衣装を着けている。その大きさ、肉付き、そして表情は親しみやすく、細やかで、絵本での世界を見事に表現していた。

物語というよりは、各動物が登場して、対話をしたり、仕事をしたり、料理をしたりと人間のような生活をする様を順々に紹介してゆく。

 

動物の特徴を活かしたダンスは愉快であり、ものすごく洗練されていて華麗だった。マスクでは実際表情を変えることはないはずだが、演技によって笑っているようにみえたり、憤慨しているように見えたりで、観ている側の想像力を掻き立てるなあと感じた。

 

実際の動物は二本足で立たないのだけれど、ダンスの中では動物らしさを失わずに、人間味も備えていて、すべてが絶妙なバランスで構成されていて、次は何かなと常にわくわくさせられた。

これ以上はもう書いても表現しきれないので、是非鑑賞をお勧め。

 
 
 
 
 
2012年12月25日
ロンドンのとあるクリスマス
 

例年クリスマスは歌の仕事が多いこともあって、イギリスで過ごすことが多い。

今年はロンドン、ハムステッドに住む友達の家でのクリスマスディナーに誘われた。

 

友達の友達の家族に仲間入りさせてもらったので、初対面の人がほとんどだった。オーナーのスーザンはユダヤ系イギリス人で、つい2日前にアメリカにいる娘に会ってきたという。最初は2時、という約束だったが、当日「やっぱり4時からにするわ」と電話が入った。家に着くと、彼女のもう一人の娘、メセデスがいて、そのパートナーとも挨拶した。彼はロンドンで活躍するフリーランスの写真家で、カイと言い、私も一度個展にでかけたことがある。スーザンの息子のリオはついこの間結婚し、カナダ人の奥さんと一緒に来ていた。二人の結婚式の写真はカイが全て撮影した。その作品を私も見せてもらった。莫大なる数の写真は、スライドショウにすると、まるでヴィデオを見ているようだった。表情、感情、周りの様子が立体的で、興味深かった。

 

カイには元の奥さんとの子どもがいて、その子の写真をまとめたダイアリーを見せてくれた。プレゼント交換などをしているうちに1時間が過ぎた。

クリスマスディナーができあがり、テーブルにそれぞれ着いた。例によってクラッカーを開けた。(日本ではあまり見かけないが、英国式の大きなキャンディーのような形をした、中に小さなプレゼントとジョークのクイズの紙、それから紙で作った王冠が入ったもの。)

 

紙の王冠はクリスマスでは皆がそれをかぶってディナーを楽しむ。テーブルの上の蝋燭に火がついた。

ターキー(七面鳥)の丸焼きが登場し、続いて温野菜(芽キャベツ、人参、白い人参のような形をしたパースニップ、赤キャベツなど)、が運ばれてきた。これらをそれぞれのプレートに持って、クランベリーソースや、グレイヴィーソース、ホースラディシュ

と一緒に食べる。

 

食事が始まると、ひょんなことでコンピューター世代の話題になった。リオの考察に正反対のメセデスが議論をし始めた、スーザンが自分の意見をいうと、「それは一般論ではないから今の話題とはずれている」とリオ。その話しぶりがあまりに直接的で、勢いがあるので、驚いて開いた口のふさがらない私を見て、リオの奥さんが私に「喧嘩しているわけじゃないのよ、いつもこうなのよ、この家族。私も最初、びっくりしたけどね」と教えてくれた。そのうちスーザンが「What do you think, Kyoko?」と問いかけてきて、つられて早口で自分の意見を言ってみた。一応、自分もこの流れに乗れたようだったのでよかった。

 

食事が終わって皿の片づけをしているのはリオとメセデス。料理を作った人たちは何もせずずっとしゃべっていた。

その後はリオの奥さんお手製のケーキが登場した。木の切り株の形をしたロールケーキに金箔のチェリー、ナッツをチョコレートで固めたものが飾りつけになっていてとても豪華だった。

 

その後も例の議論は続き、それぞれがいいたいことを述べていた。今日明日とイギリスは日本のお正月のように家族で過ごしたり、そとにショッピングに出かけたりと休日が続く。

今年もとても楽しいクリスマスだった。

 

 
 
 
 
 
 
 
2012年12月25日
 
イギリスとパブ
 

クリスマスキャロルの礼拝の仕事を終え、帰りに聖歌隊の仲間に誘われていつものパブに立ち寄った。スローンスクエア駅から徒歩10分ほどのThe Antelopeというところ

 
雰囲気のある概観と落ち着いた客層で、大抵パブの中で席に座って話ができる。作曲Peter Warlockもここによく通っていたそうだ。「2階のあの席によく座っていたんだってね。」今日歌ったなかでWarlock 作曲のキャロルがあったので、また話題になった。
 
パブの内装は変えてはならない、という法律もあるようで、それだからこの空間にはそのパブのできた時代の雰囲気を感じることができるのかとも思う。

 

月曜の夜に、ロンドンの北、カムデンタウン近くに住む友達ジャックの地元のパブに連れて行ってもらった。パブの名前はThe Pineapple.「何故、パイナップルなの?」と聞くと、「当時(ヴィクトリア時代)南国のフルーツの名前を使うことはとてもエキゾティックな響きがしたからだよ」という答えが返ってきた。
 
その日の夜は丁度クイズの模様物があり、優勝したグループが興奮して盛り上がっていた。ジャックの地元の友達、マーティンにも会って、近所の様子などを聞いた。夜11時近くなって、パブの店員が地元の人の一人に、「娘さんからのオーダーです。」といって、1パイントのビールを差し出した。娘はそこにはいないのに。ロンドンの南でサッカーの試合を見てきた帰りに一杯、と思ってパブに直接電話したらしい。「俺が払うのかね」とマーティンが支払いを終えたあと15分後くらいに娘が到着した。試合の結果などを話しているうちにパブは閉店時間になり、徒歩3分の友達の家に戻った。パブは地元の人を知り、情報交換して交流を深める場であることをより感じた。

 

ジャックの友達の誕生日パーティーに誘われた。場所はハムステッド駅から徒歩5分のパブ。平日の夜でも中は沢山の人でにぎわっていた。個室が何室かあり、壁にはここが建てられた頃の周りの風景を描写したような絵が掛けられていた。壁は黄色くしみのように色がついていた。「パブはこれまで禁煙ではなかったからタバコの色が沈着しているんだよ」と教えてくれた。
 
ジャックが見知らぬ人に「あなた俳優のだれだれにそっくりね!」と言われていた。彼はその俳優が好きではなかったので、後で私に「そっくりなんて言われて自分を殺したい気分だね!」と言っていた。「ジャックのほうがハンサムだと思うよ」と私は返した。

 

クリスマスもあと2日。土曜の夜にロンドン郊外に住む友達のアンドリューの家に遊びに行った。もう一人の友達クリスも一緒にパブで夕食をとることにした。最寄の駅からドライブで20分ほど行った田舎にあり、向かいには古い教会ときれいな庭があり、コテージのようなところだった。中には暖炉があって、暖かさが心地よかった。変わった名前のビールもあり、友達はそれを頼んでいた。私はビールとレモネードを半々で割ったシャンディーを頼んだ。出てきた料理はどれも丁寧な盛り付けと、2人前とも呼べるような量の多さ。前菜を頼んでいたほかの二人に、おもわず「それメインディッシュ?」と聞いてしまった。私の頼んだチーズとパイの料理も山盛りだった。

 
食べすぎた私たちだったが、アンドリューが「でも飲み足りない」というので、彼の地元のパブに行くことになった。私とクリスは内心、もういいのになあと思ってが。パブに入る前にアンドリューが「オーナーはものすごく巨大なんだよ」と言っていたが、実際相撲取りのような人が立っていた。こちらが注文するのも勇気がいりそうな怖そうな人に見えたが、パブの中には家族の写真や、田舎風のクリスマスの装飾でいっぱいだった。「地元の雰囲気たっぷりだね」とクリスと話した。

 

 
クリスマス当日の昼に、礼拝の仕事を終えた後にジャックの友達のところでクリスマスディナーをご馳走になることになった。

その日は地下鉄もバスも動いていない。車で迎えに来てもらうこともできたが、ロンドンの静けさを味わいたくて歩くことにした。

 
スローンスクエアから、ヴィクトリアに出て、バッキンガム宮殿にたどり着いた。

観光客が沢山いたが、静かな雰囲気だった。それからセイントジェームスパークを通り、オックスフォードストリートに出た。またしばらく歩いているうちにユーストンにたどり着いた。さすがにちょっと一息したくなり、パブに入ることにした。ここだけはクリスマスでも開店しているからだ。中にはいるとカップルや、一人で飲んでいる人など、少人数だがお客は入っていた。互いに「Merry Christmas!」と声を掛け合っていた。ここは都心にあるパブなので地元の客層というよりは、私のようにただ立ち寄る人や、観光客が多い。

 
それでも壁に何気なく飾ってあるユーストン駅ができたころの絵など、何かぬくもりを感じた。

パブやレストランの中は公共の場として、ここ何年か前に全館禁煙になった。パブのオーナーは当時客入りを心配していたそうだが、禁煙になったことで「意外に心地がいいものだ」と皆感じて、今ではお客もそれに適合している。

そして気がつかないうちに、私にとってもとても身近な存在になっていた。建物取り壊しの問題で、パブと教会だけはその形を残さなければいけないと主張する市民の気持ちがだんだん分かってもきた。

 

 

 

 
2012年9月28日

                レイトンハウスを訪ねて

 

仕事の打ち合わせが昼過ぎに終わったので、ロンドン、ケンジントンにあるレイトンハウスを訪ねた。

 

この家は19世紀の芸術家ジョージ・フレデリック・レイトン氏の自宅、兼仕事場で、今では博物館として一般公開している。

一階は図書室、スケッチをするための部屋、ダイニングルーム、そしてアラブのホールがある。ここにはイスラム圏から運んできたというタイルが壁一面にはめ込まれ、中央には噴水(本当に家のなかに!)などがあった。

 

2階に上ると、横長の広い部屋があり、レイトン氏の絵画が数展示されたホールがある。今ではここでリサイタルが定期的に行われている。興味深かったのは部屋のすみに作られた細長いドア。大きなキャンバスを入れたり、保管したりするための場所で、他には壁の塗り替えなどができるように作られた階段、カーペットの下に隠れるようにして作られた地下の倉庫など、工夫されて家が建てられているのだ。

 

この日は午後からツアーガイドがあったので、1時間30分、たっぷりとガイドの説明に聞き入った。ものすごく早口の50代後半と見える女性が、レイトン氏の生い立ち、作品、交友関係、家の構造などを説明してくれた。ツアーに参加していたのはほとんどが地元の60代くらいの女性、男性、それからイタリア人らしき大学院生らを含め、全部で30人くらいはいた。

絵画で壁がうまっていない部屋は主にウイリアム・モリスの壁紙が多く、赤い壁紙には目がちかちかしたが、説明によると他の家具などが引き立つ色として使われていたらしい。

 

ツアーガイドが終わったあと、また部屋を廻ってみた。今日の目的であったラファエロ前派の絵画を他の人が誰もその部屋にいないときにみることができた。常設展示ではなく、レイトン氏ではないほかの芸術コレクター(シェファー氏のコレクション)が集めたものの中から、この夏限定展示の絵画がいくつかあった。

 

ウォーターハウスの作品「Mariamneには目を惹き付けられた。近くで見ると色の配分や輪郭がそれほど細かくなく、距離を3メートルくらい置くと、とたんに色が浮き出てくるように見え、ものの形がはっきりと立体的に感じられる。キャンバスは女王Mariamneの等身大が描かれているかと思われるほどの大きさ。家に帰ってからウオーターハウスの絵画が自分の西洋絵画との出会いと結びついているような気がして調べてみた。

 

小学生の頃に母によく美術館に連れて行ってもらったのだが、いつだったかウオーターハウスのMermaid(人魚)に魅せられたのがそれだった。その色と空間に吸い込まれ正直言って少し怖い体験をしたのを覚えている。ラファエロ前派の作品は架空の人物ではなく、実際の人物(画家の家族や友人)を作品の題材にしていると聞いた。この人魚の絵はどうなのか知りたくなった。

これまで、絵画鑑賞をするとき、その絵画のスタイルを自分が好きか、嫌いか考えることが多かったのだが、今日の作品、特にMariamneについては好き嫌いを問う前に、作品の説得力に圧倒された。

 

レイトンハウスの庭も当時のままに残すべく、木々や、いすなどの位置にも気を使っていると聞いた。

全て部屋を廻ったあと、もう一度絵画を見に行ったり、レイトン氏の使っていた絵の具の残ったパレット、それからFleming Juneのスケッチなど、見ていたら閉館の時間になった。時間切れで外のガーデンは見られず、なごり惜しい気持ちのまま美術館をでた。

 

2012年7月11日

クラシックバレエ教室で

まだ学生の頃、ロンドン内にある数箇所のバレエ教室でピアニストとし働いていたことがあるレベルはプライマリーからグレード8まで(4歳児クラスから成人クラスまで

各バレエ教室によって少しずつ違った指導スタイルで、使われている音楽も様々だった。

 幼児のクラスではほとんどが即興演奏で、先生のリクエストにそってリズムとメロディをその場で弾いた。例えば、「今日は動物園の物語なので、まず蛇の音楽、お願いね」と言われクロマティック(半音階)をとっさに思いついて弾いたり、というように。

グレードレベルになると、教本がありその場で指示されたものを弾いていく。実際のバレエ音楽をピアノで弾けるようにアレンジしてあるものも多い。

ダンサー(生徒)がどういった速さでジャンプするのか、ターンをするときのタイミング、間はれくらいなのかは、曲が始まってから察するしかない。実際記載されているテンポとは違ったように弾くことになるのがほとんどだ。この時ピアニストはリズムをはっきりと演奏することが大事である。

フランス語のバレエ用語が楽譜にも題名として使われている。最初は戸惑ったがそのフランス語がどういう動きを意味するのか自然に分かってきた

そのうち、自分でも踊ってみたいなと思うようになった。バレエ教室の先生に声楽を教えていたのだが、代わりにバレエを習うことになった。

バーレッスンを一通り教えてもらって、一つ一つの動きをじっくりゆっくりたどって練習をした。腕を上げる位置によって体全体がより洗練された形になるのに気がついた。指先の角度一つで普段のポーズからダンスをしているポーズにたちまち変わる。上半身が開き、上に押し上げられる感覚は気持ちが前向きになる。

センター(バーから離れて中央で踊る)ではもっと動きのあるポーズを初めから丁寧に教えてもらった。最も体全体がバランスよく、より美しく見えるような足先の動き、足の角度を一つ一つ確認する。

ピアノの音楽に乗って、ダンスしはじめると、足、腕、手の先、首の角度、などなどが一つになって作品となる。(それはまるで色々な食材を手早く一気に混ぜ合わせて焼きあがったお菓子のよう、と想像してしまった私。)技術が伴っていてもいなくても腕を大きく上げて、体全体で円を描くと心がすっきりしてくる。

普段視覚で仕事をすることが多い私。ダンスに楽譜のようなものはない。ダンスを頭より体が覚えていることもしばしばである。身も心もすがすがしくなるバレエ教室。

そういうわけでバレエは忙しくても是非時間を確保しておきたい趣味の一つである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年6月16日

 

 

        シェイクスピア テンペスト

 

 

ロンドンで公演されたシェイクスピアの戯曲、「テンペスト」を見に行った。

 

もと俳優で、今は英語の先生である、イギリス人の友達ジャックに、私が以前から観に行ってみたい、としきりに言って、ついに彼が連れて行ってくれることになった。

 

当日、公演の数時間前にジャックの家で一緒にご飯を食べながら(わざわざ寿司を買ってきてくれていた)シェイクスピアの生い立ちや、戯曲ができるまでの背景を彼に話してもらった。ジャックは以前、「テンペスト」に出演したこともあって、台詞の詳細や、舞台の話なども興奮してしゃべってくれた。

 

あらすじはナポリ王のプロスペロが、10年前に彼の地位を奪い取った弟アントニオに、プロスペロ自身の魔法によって復讐を試みた場面で始まる。テンペストの意味はもとは海で起こる嵐のことで、外国語に訳すことが難しい英語の一つだと教えてもらった。

 

アントニオとともに船旅をしていた人々もテンペストに巻き込まれ、それぞれがそれぞれの立場で意見を言い始める。一方で、プロスペロは娘、ミランダとある島を訪れた。彼がその島を収める権限を握ったがために、そこにもとから住んでいた人々や、妖精もおのおのの立場で気持ちをあらわにし始める。この人間模様と魔法が入り混じり、心の中の人生の波に揺られてテンペストが起こっているように感じた

 

戯曲の公演場所は今回はグローブ座ではなく、Roundhouseという建物だった。個人の資金で建てられたというこの場所、舞台を客席が丸く囲んでいて、俳優達を上から見るようになっていた。

プロダクションはモダンで、キャストはほとんど現代的な服装ででてきた。シェイクスピア時代のコスチュームを期待していたので、すこし戸惑ったが、イギリスらしいとも思った。あとから来た隣の人は、なんと、ビールを片手に鑑賞を楽しんでいた。

 

休憩時間にジャックと感想を交わしながら、私は俳優の声のことなどを聞いてみた。

 

「シェイクスピアの台詞はリズムが鍵を握っている。例えば互いに言い合ったりするときのタイミングは大切で、言葉と文章のリズムをこわしてはならない」と来る前に話してくれたのを思い出した。私は「台詞に抑揚はあっても声色を表面的に変えるのではなく、声が一定に響いて、演技のながれを止めない俳優はこちらを魅了するね」と感想を伝えた。「言葉の終わりに声をしっかり落とす(軽くあげない)のもよく注意された」とジャックが言っていたので、「ひとひとつのフレーズをしっかり言い切るって、聞いているほうも満足するわね」と私も歌うときと似た気持ちで答えた。

 

舞台全体はシンプルで、大掛かりに場面転換するようなセッティングはなかっが、場面が変わる瞬間のキャストの動きが絶妙で、物語の流れに躍動感を感じさせるようなインパクトがあった。

 

ときおりスピリット(エリエル)やそのほかの役柄の歌が現代的な旋律で入ってきた。

 

ジャックに半分冗談で、「芝居や、クラシカルバレーを観にいくと、歌がなかなか始まらないなあ、なんて思ってしまうときがあって」(これはオペラではない、とあとから気がつく)というと、ジャックは反対に「オペラなんか見に行くと、キャストはいつになったら歌をやめて台詞をいうのか、と思うよ」と俳優の立場で言っていた。

 

話の最後は、色々な出来事のあと、プロスペロが「お客さんの拍手のみによって自分は解放される」といって幕をとじる。台詞で直接そう言っているわけではないところが圧巻だ。

 

ジャックが帰りに送ってくれた車の中で、「スペアコピーがあった」といってテンペストの本をくれた。また、あらためて読んでみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年2月3日

 

 

夢見るマッサージ

 

2月にはいり、最後の冬の寒さが身にしみる。

そろそろ、1月からの仕事の疲れ(知らず知らずのうちに、肩は硬直し、顔つきが厳しくなるこの季節)がたまってきたのが分かる。

 

“イザベルに連絡しなくちゃ”と、早速、彼女にメッセージを送った。イザベルはスペイン人のマッサージ師。23ヶ月に一回くらい、お世話になっている。

 

今日は、首のこりがひどかったので、その周辺と背中のマッサージと、指圧をしてもらうことにした。

 

肩と首をつなぐ筋と、そのあたりのつぼを刺激してもらった。首の付け根のあたりと肩の先端のくぼみをぐっと押されると、まるで針がはすようなびりっとした感覚に襲われる。自分のなかで、なにか積み木のようなものが、がらがらとくずれたような映像が浮かび上がった。その後は体の血液と、体全体が一つの気のようなもので循環しているようになって、何か体内の固まりが溶けたような感じがした。

 

イザベルが言うに、「凝り固まって閉じられた血流をまた開いてあげると、色々なものが体内からでてくるのよ」とのこと。体がかえってだるくなったり、感情的になったり、ぼーっとしたりする。

 

イザベルは、手のひら、手の甲、それから腕などあらゆるところを使って、こちらに語るような、そして、流れが止まらない治療を続ける

 

指圧にはいって、右足を揉んでもらっていたところまでは記憶があったのだが、その後、気がついたら、イザベルが道具を片付けていた。1時間がとっくに過ぎていた。

熟睡していたわけではない。夢と現実の中間のような感じを味わっていた。体全体がどこか他の世界に飛んでいったような、そんな空間にいた気がした。

 

「あなた、またどこかの世界に飛んでたわね」と言われた。

体が、その時間だけ空気の中に吸い込まれて軽くなったような感じだった。日ごろ、何に関しても脳が決定権をにぎり、体に一方的に命令しているのを、一切止めさせられて、体が自由になった状態だった。

 

「またしばらくは、いい状態になるように願うわ、すぐに来てくれてもかまわないけどね。」とイザベル。少し会話して分かれた。

この治療は、心と体にたまったもやもや、心身の疲れの大掃除であり、体の開放日でもある。私以上に体がほっとした日であっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年1月20日

 

   突然の急行列車

 

 

先週の水曜日のことだった。

いつものように736分発の電車に乗るために、駅に着いた。切符を買っている途中にふと電光掲示板をみると、“736分発の電車、6分遅れ”と記載されている。

 

“いやな予感!”不安が頭をよぎった。この6分」は6分」遅れとは限らないからだ。

プラットホームに行って待つこと6分。予感は当たった。次の瞬間、掲示板が7分送れ、と変わった。そして、“8分、9分”と徐々に遅れる時間が延長されていく。アナウンスメントが流れた。「今朝、736分発の列車が一部、機械の故障のため、遅れています。お急ぎのところ、申し訳ありません。当初の予定時刻より、15分ほど遅れる可能性があります。」

15分遅れたら、最初の合唱のリハーサルは間に合わないじゃない!”といらいらしながら、早速、一緒に指導をしている同僚に「電車が遅れているので、間に合うかどうか分からない!」とストレスフルなメッセージを送った。「パニックにならないように、僕はもう学校にいるから」と返事が返ってきた。

 

“今日は、きっとこのダイヤはキャンセルだろう”と思った矢先に、目の前に電車が到着した。アナウンスがその後入ったのだが、空耳かと思うような内容だった。

「遅れて大変申し訳ありません。ダイヤが乱れたので、途中、駅を通過して行きます。

どこどこに行かれる方は、2つ目の駅で降りてください。」幸運なことに、私の下車する駅は止まる、とアナウンスされた。こんなことは、ここ3年くらいで、初めて。

いったん、電車が走り出すと、遅れを取り戻すかのように、ものすごい勢いで発車した。

駅をどんどん飛ばしていった。途中で、ピーターに迎えに来てもらう電話を学校にいれた。

“ええと、何分後に着くのかな、これって”と思いながら、推測して20分後にお願いします、と伝えた。予想通り、20分で、駅に着き、(いつもの倍の早さ!)結局、普段より、12分程度の遅刻で済んだ。

 

合唱のクラスに行っても、遅れた説明もする暇もなく、すぐにピアノのそばに行った。伴奏をしているうちに、今朝の出来事のことは、頭からすっかりどこかへいってしまった。授業が終わっても、すぐに次の生徒の準備で、教室を飛び出した。

 

次の日、いつもの列車に乗っていると(時間通り来た)見知らぬサラリーマン達が、昨日のことを話していた。「昨日のこのダイヤの列車、キャンセルだったんだよ、なんだかね。」とこぼしていた。

私は、イギリスに来たころは、機械の故障とアナウンスが入ると、そうなんだと信じていたが、そんなに頻繁に故障するものなのか、と人が言っているのをよく耳にする。

電車が遅れたりするのは、日常的なので、かえってそれを遅刻の言い訳にする人もいるくらいなのだ。

昨日のようなことが起こると、いつも、自分ではどうにもならないと、分かっていても、気がせってしまう。

「遅れたお詫びに臨時急行電車で、時間を取すサービスかしらね」と言ったら、ピーターは笑っていた。

 

 
 

                        マイフェアレイディーで知られるイギリスの作家G.Bernard Shawの生家で

 

 

 

 

 

2012年1月12日

 

   英国声楽教員免許

 

 

 

仕事から帰り、家に戻った。玄関の床に無造作に散らばっている郵便物の中から、薄い茶封筒が眼に入った。

発送人が記されてないし、この文字、知り合いからじゃないなーと思いながら、数秒後にまさか、例の結果じゃないだろうか妙な勘が頭の中をよぎった。

 

こういうときは潔く、と決心し、封をあけてみると、紙切れ一枚が入っていた。去年の11月の末に受けた教員免許の試験の結果だった。点数を確認して、3度見直してみた。

「もしかして、合格?」とたんに疲れがどっとでて、その場で座り込んでしまった。

 

実は、この試験、前回も挑戦していたのだが、合格には後一歩で、再度の挑戦だったのだ。

 

試験の内容は、デモンストレーションレッスン、初めて見る楽譜に対して曲の解釈(イギリス民謡、ミュージカル、ドイツ歌曲、宗教曲、オペラ、と分野はかなり幅広い)と自分なりの教授法。その後に面接。以前に受けた書類審査(3人の生徒のケ-ススタディー、同僚のレッスンの観察レポート、教授法に対する自分の哲学、自分のオリジナルの声楽テクニックの教本、をそろえて提出)は満足いく結果で合格していた。

 

仲のいい友達が、今はグレード試験の試験官となって働いているので、彼女にアドヴァイスをもらったり、参考文献を貸してもらったりした。

 

今回の試験には、以前の書類全てをもう一度提出しなければならなかった。探したけれど、見つからない、、。締め切り前日あわててロンドン郊外にいる別の友達にファイルを添付してもらった。書類の全てはその友達のほうがちゃんと保管してくれていたのだ。毎度のことなので、友達も私の、大切なものほど何処かにしまい忘れるという、やっかいな傾向に慣れてきてしまったようだ。

 

「前回のレポートをもう一度読んだほうがいいよ」と忠告され、「主に、私はしゃべりすぎだ、と書いてあったよ」と返事した。他にも多々見直すところはあったけれど。

 

 

試験当日のデモンストレーションのレッスンには、勤めている学校の自分の生徒に頼んできてもらった。しっかりした子だったので、私に「Miss Murai, 試験に必要ものは、全部そろってますか?」なんて、寸前に忠告された。

 

30分のレッスンを終えた後は、譜面を渡されて曲に対する解釈を述べた。面接を終えると丁度一時間が過ぎていた

帰りの電車のなかで前回よりは、試験官とのコミュニケーションはとれていたけれど、ああ、あの時はこう言えばよかったのに、とぶつぶつ考えていた。

 

今日、こうして試験を振り返ると、試験官の表情が、冷静に映ってくるから不思議だ。

これで潔く、要らなくなったメモや、紙切れが捨てられる!心の中の部屋の荷物がまたひとつ整理され、次の目標に取り掛かれると思うと、気持ちがすっきりしてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年1月11日

 

夢のような現実

 

 

つい3日前に日本からロンドンへ戻った。

次の日から例によって6学校へ仕事に出かけた。3週間ちかく、日本で過ごした後に、この場所にいる自分が信じられず、なんだか急にドアの向こうの全く異なった世界に放り込まれたような気分になった。

 

体は時差ぼけで重く、頭で思っていることと、言葉が同時に反応しない。

「おはよう、先ほどの用件のことですが、2階の12号室に行ってください。」とフロントデスクの秘書に挨拶され、5ほど後に返事をしてしまったりで、「“時差ぼけなので、、”という理由でことを収めるのは、10日間くらいは許されるわね。」とジョークを言われた。

この時、ふと気がついたのだが、日本語で考えるということを全くしなくなっていた。

正直言って、どちらの場所が私にとっていわゆる“ホーム”なのか、とても困惑した。つい23日前まで日本にいたことが、まるで夢のような気がしたほどだ。

 

学校で、職員や、生徒と会話しているときに、たとえ体はぼーっとしていても、何かを伝えなければいけないという気持ちから、使っている顔の表情、舌の筋肉、手振りなど、自分でも日本にいるときの違いを感じた。長旅の後、疲れすぎで興奮しているだけなのかもしれない、とも思ったが、、。

 

 

クリスマス前に行われた、生徒のグレード試験の結果がでていて、教えた生徒は皆、合格していた。試験に向かって努力をした結果がそれぞれでていた。、今回は特別に時間を割いて教えたり、それぞれの子供にあった曲目をリストの中から吟味したかいがあってよかった。

 

この日は、仕事のあと疲れていたけれど、父兄の一人と一時間ほどの雑談をした。

実は、この人は作曲家で、彼女の書いた曲を、教えている大学で私が歌ったこともある。

なんでも遠慮なくしゃべりあう間柄なので、話はつきない。「春にコンサートをしたいわね」と言われ、楽譜をもらった。

 

駅まで、車で送ってもらった後、帰りの電車の中で独りになると、ついに睡魔に襲われた。仕事用の楽譜で重いスーツケースを引きずりながら家につくと、これもまたクリスマス前に受けた、声楽教職試験の結果と思われる茶封筒が届いていた、、。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                   校舎と周りの風景

 

 

2011年12月12日

 

       練習兼本番

 

 

 

午後の仕事は、コンクールへ応募するためのヴィデオ撮影の歌の伴奏だった。BBCのスタッフが一人来ていて、リハーサル風景と、演奏そのものを取りたい、ということだった。

 

1曲めは知っていたが、2曲めが困難で、どうにかしてごまかす方法がないかと考えた。

録音となると緊張してきた。ざっと10分くらい練習をしたあと、リハーサルが始まった。

しばらくすると、学校のほかのスタッフが「Would you like tea or coffee?」と飲み物を持ってきてくれた。喉も渇いたし「Tea please, thank you」と言ってお願いした。

 

一口飲んで、また弾き始めたとたん、心臓がばくばくしてきた。“しまった、いつもこういうときに紅茶を飲むと、緊張するたちだった!”と気がついたときには遅かった。

 

そのまま、撮影に入っていった。ピアノの前奏がやけに長い曲があり、もう自分の中でハーモニーとメロディーラインを歌う、ということしか頭になかった。手が勝手にそれについて行った。音楽を演奏するというのは、信じられないくらい多くの作業が一瞬にして行われる。特に今回のような場合は、ピアノのパートをそれぞれ横と縦の線で追っているのと同時に歌のラインを見て一緒に演奏されているか確認する。それとともに指揮者のテンポ、強弱への指示にあわせる。時々、ソロを歌う子供がまちがって入ってきたりしたら、場合によってはその子供にあわせるほうが音楽的にまとまることもあるので、その判断も一瞬にして決断することになる。同じ曲をなんども演奏すると、たまに緊張の糸か、集中力が切れそうになる。

 

セッションの途中、子供たちのひとりが選ばれて指揮体験をすることになった。

始める前にどこが強か、私に聞いてくるくらいだったので、ピアノに合わせて指揮をしていたような感じだった。ところが、曲も半ばにはいると合唱団のいつもの指揮者のまねをして、弱の指令を上手にだしたり、感情表現を伝えたりしている。その生き生きとした姿に引き込まれたのと、あまりにもかわいらしくて、弾きながら微笑んでしまった。

 

全てのセッションが終わって、気がついたら午後の4時近くなっていた。

音楽のヘッドに「本当に助かったよ、ありがとう!」と言われたのでほっとした。

 

午前午後他の人にとっては"リハーサルだが、私にとってはぶっつけ本番” しかし、ほとんどの子供達は、音楽の先生なら、練習せずに何の曲でも弾けるものだ、と思っているのでは、とも感じた。

 

3日間くらいの集中力を使い切ったような感覚だった。帰りの道のりで送ってくれた父兄の車の中で、ずっとそのことをしゃべっていた。体は疲れていたのにもかかわらず、頭のなかはテンションがたかく、音楽ががんがんなっていた。

一日たった今日、演奏した6曲のうち、2曲くらいしかおぼえていないことに気がついた。

新曲視奏とは新しい情報を短時間で咀嚼する、脳の運動のようだと思った。

イギリスにいるかぎり、このような仕事はまた、遅かれ、早かれ、やって来るだろう。

 

 

 

2011年12月12日 

 

                      キャロル礼拝リハーサル

 

 

 

 

クリスマス休暇前の最後の学校での仕事日も終えて、駅で帰りの電車を待っていた。

 

偶然、音楽のヘッド(学校職員の音楽学部のリーダー)と一緒になった。

「来週の月曜日、空いているかな?合唱のリハーサルの伴奏者が必要なんだ。」と言われた。

「誰もいないなら、やってもいいけど。」と引き受けた。どうやら、常勤のピアニストがその日だけはできないということだった。私の仕事は、このように突然、舞い込むことが多々ある。

 

月曜の朝、起きて、電車に乗っているとき、ふと、変な咳がでた。“また、喉の使いすぎかな”と心配になったのとともに、まだ今日の仕事は始まっていないのにどっと疲れが押し寄せた。喉の状態は、私の体調を敏感にキャッチするので、要注意である。

 

8時半に学校へ着いて、その足ですぐに学校のチャペルへ向かった。

外からもう子供たちと指揮者がすでにリハーサルを開始している音が聞こえる。眠気が一気に覚め、喉のことも忘れ、どこかで聴いたことのある曲だなと思いながら、中へ入った。

 

ピアノに近いて、そのまま曲の途中で伴奏を代わった。それから、一曲さらったあと、

どうやら、これから近くの教会で、あさってのキャロルの礼拝のゲネプロを行うことがわかった。合唱団は二つあり、それぞれオーディションによって選ばれた子供たちが参加できる。それぞれ約30人から40人前後いた。

 

さて、教会では、私が合唱団の後ろでピアノを弾くことになった。楽譜は前もってもらっていなかったので一度も目を通していない。

子供たちが出入りの練習をしている間にざっと譜面を見て、鍵盤の上から音を立てずに練習してみた。一度、さらっと通した後、今度は礼拝全体の流れのなかで音楽をいれることになった。

 

子供の中の一人が来て、「譜めくりを手伝いましょうか?」と申し出てきたので「じゃあ、お願いするね」と頼んだ。そのときは助かるなと思ったのだが、これが予想外の展開になってしまった。めくってほしいときになかなかめくってくれない。どうやら、どこでめくるのか、見落としていたようだった。

その次のページになると、今度は早くめくられてしまい、そのうめあわせに自分で勝手に音をつくることになった。「まだ、まだだよ、、いまめくって!」と演奏中に声をだしながらなんとか曲が終わった。

 

3曲終わって、ふとプログラムをみると、もう一曲載っている。“おかしいなー”と考えていたら「これ、お願い、適当に作って弾いていいから!」と楽譜が目の前に飛んできた。とにかく、こういうときは指揮とテンポがあっていることと、書かれているメインの和音をはっきり演奏するのがポイントである。よりによって最後の曲はテンポの速い曲で嵐のように終わってしまった。本当に適当に楽譜の半分くらいはじぶんで作って弾いたのかもしれない。

 

その後、学校へ戻り、ランチをさっと済ませた後は、午後から別の仕事が待っていた。

 

 

2011126

グレード試験

 

私が今働いている学校での音楽の個人レッスンは、学校では選択したい子供だけが特別に受けるシステムになっている。親の同意によって授業の合間に行われる。

個人の意思によるものだから、レッスン中に行われていた授業については自分か担任の先生が、穴埋めをするシステムになっている。

個人レッスンを受ける子供たちの動機はそれぞれ。楽器が好きだから、何か新しいことを始めたいから、親が薦めるから、兄弟がやっているから、才能があるといわれて、など様々である。

 

先日、この生徒たちの音楽の試験があった。グレード試験と言って、ヤマハ音楽教室の試験といったらわかりやすいだろうか。学校側で行う試験ではなく、他の音楽機関が設定した段階別のテストである。今回は声楽のみで、課題はミュージカル中心の歌を振り付けで歌う、というもの。歌、振り付け、そして曲への関心と理解が点数の基準になる。歌唱指導、振り付け、そして質問にどのように答えるか、を私と生徒たちで考えながら試験に備えてきた。

 

私の生徒のうち、試験を受けるのは今回7人。日本の小学1~5年生にあたる子供たちで、それぞれ曲に合わせてコスチュームも揃えてきた。(これもいくらか点数に結びつく)

試験場の前で待機していると、他の先生の生徒が、試験を終えて部屋から出てきた。

日本の旅館の浴衣のようなものをまとっていたので、「なんだかそのコスチューム、日本を思い出させるなあ」とぼそっとこぼした。「この生徒はアジアのお姫様の役なのよ、あなたにお辞儀の仕方、指導してもらえたらと思っていたんだけど時間がなかったわね」と先生が私に言った。おそらく着ているものは、“役柄とはちょっと違うものじゃないかなー”と思ったが、そこは黙っておいた。

 

私の生徒の最初の女の子は、お母さんも同伴でしっかり髪の毛もセットされてやってきた。私と曲をざっとあわせて一緒に試験の行われる部屋へ入った。コスチュームはやはり、演奏をいかす道具であるな、とそのとき感じた。

 
二番目の男の子は、シルクのズボンと、鮮やかな刺繍のはいっている上着(これもシルク)で登場してきた。2曲めは着替える、と言われて、“大丈夫かな”と一瞬不安になった。

歌は最初不安げだったのに、一曲めが終わると、ものすごい勢いでささっと着替え始めた。

変なところに感心してしまった。

 
三番目の男の子を探しにいくと、着替えていない。どうやら、忘れたらしい。

取りに帰る時間ないしキャンセルもしたくない。幸運なことに、歌の役柄が、Boyだったので、学校の制服の上着をぬいで、ポロシャツででることになった。「ぼくは、コスチュームが着たかったよ、、」と半泣きされ、“私だって着てほしかったわ、できれば“と内心思いながら「今度は着てやろうね、はい!」と言って背中を押した。

 
4番目の男の子は小学3年生優雅に本を読んで座っていた。「着替えてないの?」と聞くと「あ、そうか」といって行動しだした。伴奏あわせをするために迎えにいくと「がんばれよ、きっとうまくいくよ!」と他の子供に声をかけている。
 
5番目は、小学4年の女の子。試験当日だというのにまだ詞が覚えられない。試験直前にあぶない箇所をもう一度練習させて本番へ向かった。この方法が利いて彼女はすばらしい演奏をした。この子は以前も同じように切り抜けたんだった、と思い出した。
 
6番目の小学4年生の女の子は正反対。振り付け、歌詞、コスチューム、全て完璧に揃え、時間通りにやってきた。本番、一瞬歌詞を忘れ、歌っている途中に横でピアノを弾いている私の顔をのぞいてきた助けたいけど、できないの!“と必死に顔で訴えた。
 
7番目の女の子(小学5年生)の番がようやくやってきた。彼女は相当前から練習室に登場し、何か手伝うことはないか、と聞いてきた。いつも色々手助けをしたいと申し出るので その子のことは、“アシスタント”と、私は呼んでいる。あまりに早く来ていたので、他の先生にいちど室に戻るように言われていた

 

どうにか試験も無事に終わり、こんどはあさってのピアノの生徒の試験の準備にもどらなければならなかった。

試験は、受ける側とって色々な面で自分自身が試されるいい機会だと感じる。演奏するということは、どんな状況においてもその人の良い面、または弱い面が正直にでる。いい準備を重ねて、なんでも積極的取り組むことで次への成長につながるのではないか。

音楽作りへの過程と当日を楽しんだかどうかが一番大切なのではないかと思う。

 

試験結果の発表は一週間後である。

 

 

 

2011年11月25日

 

 

 

 

 

学校への通勤 その2

 

学校の送迎車は私ともう一人の同僚以外は利用していない。ほとんどの職員は地元から車で来ているからだ。

ピーターの迎えは朝のみで、そのほかの時間帯は自分でなんとかして学校まで行かなければならない。

帰りは大抵、最後に教えた生徒の母親が駅まで送ってくれることが多い。

たまに誰も見つからないときがあり、そのときはいよいよ“歩くしかないか!”と思う。

昨日事情があり、昼少し前に駅に着いた。こんな時間帯には誰も頼める人がいないと思い、自分でもこれは危険だと承知だったが、駅から歩き始めた。

最初の坂をくだり、中間地点を過ぎ、(ここまでは歩行者の道がちゃんとある)いよいよ

ロータリーに差し掛かった。ここまでくるともう信号はない。

一気に道路を横切ったとき、どこからか声がした。

Are you Miss Murai?」なんと教え子のお母さんだった。「学校へ行くのだったら乗ってください!」と言われてそのまま勢いよく車に飛び込んだ。

「今日は、トマス(息子)がラグビーのグローブを学校に持っていくのを忘れてしまって今、届けるところだったのですが、先生こんなところを歩いているなんて!」

私はなんだか恥ずかしくて、でも笑えてしまった。「私自身もなんでこんなところにいるのかしら、と感じてました、、。とにかくミラクルですねー」と言って感謝の気持ちを伝えた。

 

そういえば前にも同じようなことがあった。学校から歩いて帰ることを試みたところ

ふと前を見たら、一たん学校をでた車が一台引き返して来てこっちに合図してきた。

これまた学校の父兄の一人だった。

「こんなところ、歩けないですよ!」と言われ、また車に乗せてもらうことができた。

後ろのシートには教え子のYear 2 (小学2年生)の子供が何事もなかったようにビスケットをかじっていた。

今後はこのようなことがないようにしよう、ミラクルはそんな頻繁にはやってこない。と毎回思って3年過ぎた気がする。

歩行者は思っているより目立つことだけは学んだ。

 
 
 
 
 
 
 
                               ピーターの蜂蜜
 
  
 
 
2011年10月31日
             

 

 

学校への通勤  その1 送迎車

 

週に3回、ロンドンから電車で北に向かって1時間弱かかるところにある私立の小中学校で音楽を教えている。

最初のレッスンは朝8時半スタートなので、家をでるのは朝の7時過ぎ。

仕事を始めたてのころは6時起きだったが、今ではぎりぎりまで寝ていたいがために6時半近くまで寝て、無理やり布団から出る状態になっている。

特に11月は朝7時でも真っ暗なので、なんでこんな時間に出かけなくてはならないのだろうか、と思いながら支度をする毎日である。

 

学校の最寄の駅からは、用務員のピーターがスクールバスで迎えにきてくれることになっている。

駅からは車で5.6分、歩ける距離だが、急な坂の高速道路のような道なので、徒歩には無理がある。バスの中で、ピーターとは都会の雑踏と田舎の住み心地のよさを比べて話したり、ピーターの家族の話を聞いてみたり、気候について質問してみたりする。

 

ひょんなことから自家製の蜂蜜を作っていることを知り、一瓶購入してみたところ、これがとても魅力的な味がする。透明がかった黄色の蜜に、ほんの少し苦味のような感触があり、なめらかな舌触りと、上品な甘さが最後に残る。作っている人を知っていると一層おいしく感じるのも事実だ。それ以来、定期的に買っている。「最近は日本へのお土産として喜ばれているの」と言ったら「参ったなー、海外輸出とは」と応酬された。うれしかったのかな、と思ったが。

 

3日のお迎えだが、駅員さんもスクールバスのことを知っていて

私のこともなんとなく分かっているみたいである。ピーターに「バスには大きく学校の名前も入っているしね」というと「これからは逃れられないしな」と言っていた。

 

駅に着くといつもロンドンとは違った新鮮な空気と人の係わり合いの違いを感じる。

週一回はかならず同じ時間帯にプラットホームで会う、おばあさんとも知り合いになり、

彼女の話を電車がくるまでずっと聞く日もある。

 

最近、駅の目の前に住宅ができ、3年間私のお気に入りの景色だったポピーの花畑が消えてしまった。カフェも、パブもない、ほとんど無人駅のようなこの場所。最初はとまどったが今では好きになってきた。それが、おそらく数年後は変わっていってしまうのかと思うと残念だ、とピーターと最近話している。

 

 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私のホームステイ先の寝室

2011年9月17日
アリゾナツアー
 
 
その3        ホームステイ
 
 
 
フラグスタッフのホームステイ生活も、4日を過ぎた。
それなのにまだ一度もまともに奥さんと娘さんに会っていない。奥さんは早朝ヨガ教室で教えているため朝5時起き、娘さんは高校が遠いらしく7時には家をでていたらしい。正直言って、私は熟睡していて全く気がつかなかった。
反対に私が夜のリハーサルから戻る頃(10時くらい)にはもう寝てしまっている。
 
ご主人とはよく顔をあわせるので、私の予定をなんとなく、察してくれていた。この家は中心地から最も遠く、リハーサルの場所からもかなり外れていた。ご主人と時間が重なるときは、朝、中心街まで送ってくれたり、グローサリーショップに連れて行ってもらったりもした。
バスも通っていないので、帰りはタクシーを使うことになるだろうと予測していた。
 
事前にきちっとした予定表が配られていなかったこともあり、ご主人は「君や、他の合唱団の皆は、大丈夫なの?」となんども聞いてきた。
「いきあたりばったりという感じです。」と答えたら、何もいわずに地図などを持ってきてくれたりしてあらゆる情報を提供してくれた。
二度ほど(一度ではなく)「何かあったらいつでも電話しなさい、迎えにいくよ」と言ってくれたので、思い切ってその夜はご主人の携帯に
電話をいれた。「今、食事を終えて駅の近くにいるのだけれど、ええと、、。」と説明するとどこのレストランか、と聞かれた。
答えると「では、そこで待っていて、」と答えが返ってきた。頼んでよかったのかな、と内心思ったが、大抵日本人以外は、いやならはっきりと断わるだろうし、と考え直してレストランで15分ほど仲間とおしゃべりをしながら時間をつぶした。
 
しばらくして、私の家のご主人登場。なんだか家族に迎えにきてもらったような心地だった。
帰る途中の道の脇に何頭もの鹿を見つけた。夜中に草むらに戯れる動物達がものすごく神秘的に感じられた。
ふと空を見上げると、今までに見たことのない大量の星が目に映った。星が輝くというのはこういうことか、としみじみ思った。
また夜の空気がしっとりと周りの木々に染み込んでいるようだった。そのなかで自分の呼吸が自然に落ち着いていくような
感覚を覚えた
 
この家の最後の滞在日にようやく奥さんと娘さんと会うことができ、夕食を供にすることが出来た。
後から知ったのだか、これは総てヴォランティアで滞在場所を提供してくれていたそうだ。
 
5日目の朝、別の家に移ることになった。
今度は合唱団のメンバーも2人滞在していて、そこにお世話になることになった。
家のなかに通してもらい、荷物をおいて周りを見渡した。昨日まで滞在していた家とはまた違ったモダンなスタイルの家だったが、
その広さと、周りの景色は同じく優雅なものであった。天井が高いので、思わず声をだしてみたくなった。
 
滞在中に出会った人々は、初対面の私達に明るく接し、困っているとさっと手をさしのべてくれ、そのほかは自分の普段のペースを守って暮らしていた。この土地に住んでいることを心から楽しんで、近所の人々とのつながりあいがとても深いことが伝わってきた。
 
ここでのホストは私達の演奏会にも足を運んでくれた。私にとっては、音楽を通じて感謝の気持ちを伝えられたことは有難かった。
朝、起きると「倉庫にシリアルがあるから、好きなものを適当に持ってきて食べていいと言われているの、すごいから覗いてごらん」と仲間に言われた。
 
その倉庫なるものに行くと、戸棚には何十箱もの業務用と思われるくらいの大きさのシリアルが置いてあった。
蜂蜜のビン、スナック菓子、ミルクなどありとあらゆるものが貯蔵されていた。
「家も大きいけど、日用品もここまで大量にあるとは。なんだかお店の中にいるみたい、、!」と仲間と感想を述べ合っていた。
自分が普段より一層小さく感じられてなんだか可笑しかった。
 
 
 
  頂上からみたグランドキャニオン
 
 
 
2011年9月15日
 
 
アリゾナツアー

その2 グランドキャニオン
 
フラグスタッフに滞在2日目で、合唱団員そろってグランドキャ二オンまで行くことになった。
私も今までに一度や二度は写真やテレビなどで目にしたことはあったにちがいない。しかし、それだけで特に印象に残っていなかった。
 
団体用のVanで高速道路を走り、1時間くらいたつと、周りの景色が岩だらけに変わった。テントが見え、人が住んでいる場所も転々と見つかった。まるで、360度の映画の大画面の中心にに自分がいるようだった。私を含め、皆それぞれ「Wow!」とか「Spectacular!」とか大声をだしていた。
 
その後30分くらいして、いよいよ崖のかなり高い場所に車を止めた。ここからは散策、あるいは本格的な山くだりをするか、自分の好みで景色を堪能することになった。私は歩くのが好きなので、中級者コースに参加することにした。さあ、出発しようかな、と思ったらあいにく雨が降ってきた。
 
皆がっかりした顔になっていたが、せっかくここまで来たのだから、と歩き始めることになった。
バスでまず、眺めのいい停留所で降り、そこから下山するすることにした。雨の雫と気温でだんだん寒くなってきた。
 
停留所についたら、高度と寒気ですでに体力を消耗してしまった。思わず、カフェでハーブのお茶を買って体を温めた。お土産屋の外で,雨宿りをする観光客ともまれながら, しばらく雨のやむのを待った。ついてないなと思った。
 
私とあと3人の合唱団のメンバーで崖をくだることになった。傘を差しながら、ちょっと不安を抱えての下山が始まった。5分くらいするともうあたりは崖のみで、あとは木々に囲まれ、雨と、空気と、植物のにおいが重なって肺の中が浄化されていくような気持ちになった。ハーブが周りを囲むように香りを放っていた。
 
ふと周りを見渡し、はっとした。雨の中に見える峡谷はすばらしく美しかったのだ。岩の色が私の目には一層洗練されて写った。
岩の色とその下に写る暗い色彩とが混じった淡い影のようなもの。今までに見たことのないような色合いだった。今自分のそばで実際に響いている音だけではなくて、遠くに見える峡谷から何か聞えてくるものを感じた。全ての景色が一体化して息をしているようだった。
 
雨が降ったおかげで、その後、巨大な虹を見ることができた。途中、身知らぬ人たちと挨拶したり、崖の下の様子を聞いたりしながら、楽しく歩いた。もう時間が迫ってきたので、途中で今度は、崖を上って引き返すことにした。
 
登っている途中、今度はカップルに会い、彼らは半日がかりで下山し、今上がって戻っているのだと言っていた。ここではお互いに親近感を持ち開放的になれる雰囲気があった。それは皆、この自然に魅せられて幸せな気持ちになっているからだと感じた。
 
私は、「Grand Canyonを見ただけでも、アリゾナに来たかいありだった!」と独り言をいっていた。
合唱団やこれから行われるコンサートのことなども忘れたくらい、心がその大自然に吸い込まれてしまった。息をするたびに体のなかに新鮮な空気が通っていき、そこからインスピレーションのわくような新しい感覚を味わった。
 
帰国後、知り合いに「一生に一度はグランドキャニオン!」などど言って興奮している自分が想像できた。
ここで見た景色、におい、風の心地よさ、人々の思い出は、これからの私生活の原動力となることは間違いが無い。
 
 
 
 
 降りながら見えた峡谷の景色
 
 
2011年9月12日


アリゾナツアー
その1  豊かな生活
 
ここ数年ロンドンにある地元の女声合唱団に関わっている。指揮者が私の卒業した大学院の教授だったことで、その合唱団の手伝いや、ソロを引き受けたりしている。今回は、初めての海外遠征でアメリカのアリゾナ州に行くことになった。
 
目的はアリゾナにある大学にて行われている音楽祭への参加、それから合唱団単独のコンサートが中心。私ともう1人のソプラノ以外はアマチュアで、旅行のマネージメントはほぼ合唱団自体が行い、滞在場所はアリゾナの大学側が提供するという形になった。
 
初期の段階では合唱団員はホテルに泊まることになっていたらしい。ところが財政の関係で急遽、ホームステイという形をとることになった。
最初、その話を聞いたときは正直言って”面倒なことにならないといいけど、、。”なんて感じていた。それは、ホームステイという言葉が、私の中ではなんとなく、”語学学校に通う時に選ぶ滞在手段”というイメージと重なっていたからかもしれない。
 
アリゾナに関する知識もほとんど私にはなく、現地の気候を調べても着るものなどもあまり想像できなくて、スーツケースの中身もあいまいになっていた。合計8泊するのに、、。
 
当日、ロンドン出発はお昼過ぎ。アリゾナに着いたのは夜の9時過ぎだった。蒸し暑い空港の外で、まずはシャトルバスを待った。
「今、ロンドンは何時かなー」と話している人たちがいた。出発場所の時間は考えると、私はとたんに疲れるたちなのでその会話はわざと聞かないようにした。
 
シャトルバスにのること1時間強、途中夕食を食べることになった。私は全く食欲がなかったが、他の人たちはアメリカンな食事(バーガー、フライドポテト、Lサイズのアイスココアなどなど)を平気でしていた。食事をとることで現地の時間に体が慣れるからだと言っている人がいた。本当かな、、。
 
当初の予定では10時半に大学の近くの小さな駅に着いて、それから各ホームステイ先に車で送ってくれるということだった。
飛行機の遅れもあって実際駅についたのはなんと夜中の11時過ぎ。おまけに雨降りだった。
 
私のホームステイ先は、中でも一番駅から離れていた。車に乗ること15分、あたりは森林に囲まれて、家と家の距離が次第に長くなっていった。
着いた場所は、まさに森林の真ん中。それらは松の木だった。
 
運転したくれた人に「ここですよ。」と声をかけられて家の外観をチラッと見た瞬間、眠気が一気に覚めた。一軒家というよりは、3住宅くらいの建物に見えた。
ゆったりとスペースをとった玄関はまるでイギリスの地方のホテルのように大きかった。それだけで、中の様子がほぼ推測できた。
 
ご主人がでてきて「ようこそ、どうぞ中へ」と迎えてくれた。夜中だったのでもう奥さんと娘さんは寝ていた。私のベットルームを案内してくれた。その部屋の大きさと丁寧に並べられた家具、ベットメイキング、何枚にも重ねられた大きなタオル、上品なカップなど子供の頃自分の理想の家としてよく描いていた絵のようだった。初対面の人だったが、思わず「(驚きのあまり)口が開いたままです。」といったら笑っていた。
 
これではホテルどころではない。
自然のなかに建つ、広々とした空間にものを大事にして、清潔に、かつ長く使っている、そのような暮らしぶりが私には何よりも贅沢に
思えた。
 
ご主人は眠たそうな様子だったが、細かく家のことを説明してくれた。私のほうは反対にすっかり元気になってきた。
体のほうは長旅と時差ぼけで疲れていたが、その日は(もう次の日)ずっと入っていなかったお風呂につかった。ロンドンのフラットではシャワーしかないので、お風呂好きの私にとってはとてもありがたいボーナスだった。
洗濯されたばかりのシーツと布団カバーのベッドで、とても心地よい眠りについた。

 
 
 
                             セドナの赤い岩山(まるで城のよう、、!)
 
2011年9月3日
 
 
ある日の小さな結婚式

 
金曜の午後、友達と駅で待ち合わせをした。突然 「明日の結婚式できる?リハーサル3時から」と教会の音楽監督から携帯電話にメッセージが入った。
教会での結婚式で歌を歌う仕事の依頼である。「了解」とすぐに返事をした。
 
友達が現れたので、二人で話しながら目的地に向かっていたら、教会から電話があった。
「明日のカップルなんだけど、事情があって小さい結婚式になるらしい、歌のほうはいつものとおり、Ave Maria と何かもう一曲。それから突然曲のリクエストがあって、、。ドゥビュッシーの曲何か弾けるかな?」
"楽譜はもっているけど、弾けるかどうかは保障できないなー”と思ったが、「オーケー、じゃあ明日」といって電話を切った。
心の中で”きっと私に弾けないということが分かったら無しになるだろうからまあいいや”と思ってその日は練習もせずにいた。
 
土曜の当日に教会に行くと、私と指揮者の二人しか今日の音楽を担当する人がいないこと分かった。
今日、結婚する二人には経済的に負担が大きく、式には多くのお金を賭けられない為だ、と聞いた。大抵の場合、歌手4人、オルガニスト、それから指揮者の6人という編成が多い。
歌をさらっと一回通してリハーサルを終えたら「ところでピアノ、何を弾ける?」と聞かれた。"え、本当に弾くのか”とあせったが一応了解してしまったのでやるしかない。式までの残り30分猛練習をした。新郎が私に一言挨拶に来ていたのも気がつかなかったほど集中してピアノに向かって、必死に過去の演奏の筋肉の記憶をたどった。
 
4時過ぎに式が始まった。新婦の入場で歌った後は、神父による結婚の儀式が行われた。
来賓の数は数えるほどで教会がいつもより余計に大きく感じられた。
 
この仕事を始めて、これまでに一体何組の式を見届けたのだろうか。ウエディングドレス(もう見慣れて珍しくなくなったのは少し残念、、、。)や、来賓の装い、家柄、家族層など本当に人それぞれ。このような最も私的な場所に他人でありながら音楽担当者として同席していることに最初は戸惑いが大きかった。今では良い機会に恵まれたと思い式には真摯に向き合い、同時に観察もさせてもらっている。
  
結婚の誓いを終えて、証書にサインをしている最中にまた一曲歌った。
最後に新郎新婦の退場で例のピアノ演奏をすることになった。ほとんどの人は新郎新婦に注目している。けれど音楽無しには式は進行しないので緊張感からは逃れられない。メロディーラインを頭の中で歌っているうちに雑念が消えてきてあっという間に曲が終わった。それとともに式も終わった。
 
帰り際、同僚と教会を出るときに来賓の中の数人から”音楽がきれいだったわ、ありがとう”と声をかけられた。私が歌っていたことに気がついていたようでそれはそれでうれしかった。
 
人生の選択は自分で決めるもので、式の内容などもこうでなければいけないという形などない。自分の直感と自身を信じることできっといい道が開かれていくのだろうと思う。


 
                                  
ハムステッドヒースのガーデンにて
 
 
2011年8月27日
 
一にも二にも友達


毎日会わなくても、話をしなくてもつながっている友達がいる。
イギリスに戻ってきてから何人かの友達と会ったり、電話したりしたが、最も近しい友達の一人からの返事が一向にない。
おかしいなあ、と思っていたらメッセージが届いた。”今は仕事で忙しいのだけど来月ロンドンで会えるかしら?”

リコーダー奏者のマリアとであったのは今から12年前。同じ大学院のコースで勉強をしていた日本人の学生を通じて知り合った。
イギリス人の彼女は、勉強をはじめ、ここでの生活の何から何まで初めての体験の私にいつも”大丈夫?”と声をかけてくれた。

大学院でのエッセイの宿題では私の英文を読んで最初から書きなおしてくれたり、(部分的に直すのではおさまらないほどだったので、、)さりげなく他の友達との会話をサポートしてくれていた。

彼女はその頃既に娘がいて、私的なことなどを私に詳しく話してくれたのだけど、とにかく早口でその内容は半分も聞き取れていのかどうかは分からない。

一緒に行った演奏会は数しれないほどある。彼女を通じてまた大学以外の音楽家達と出会い、知らず知らずのうちにイギリス文化が身近なものになってきた。

永住権を取得する間までの10年間は、毎年書類準備と審査待ちで頭痛の繰り返しだったが、マリアをはじめ沢山の人に励ましてもらった。
留学しているときは、とにかく毎日必死でつらいとか、疲れたとか感じる暇もなかった。そんな時に口では多くを語らず、気分転換に散歩に付き合ってくれたりもした。

彼女が忙しいときは音沙汰が全くなくなるので、最初は”見捨てられたかな、ついに、、” と思ったときがあったがそんなときは反対に私のいまかかえている問題はたいしたことがないのかもと思い直したりもした。

数年前、クリスマスの日に私は教会で仕事をしていたのだが、その日はロンドンの地下鉄は運行していなかった。それを知っていたマリアは自分の家(ロンドン郊外)から1時間半以上かけて車で迎えに来てくれた。クリスマスはヨーロッパの人々にとっては日本のお正月のように家族で過ごす大切な日。その夜を彼女と彼女のパートナーと娘の中に招待してもらった。次の年にはマリアとパートナーの彼と3人で過ごした。(その次の年は私は日本に居たので彼らは内心ほっとしていたかもしれない、、)

人との会話は、コミュニケーションの深さによって様々な深みのある色に変わる。こちらが何が言いたいのか、相手がどんな心地で話しているのか、そして何を次に伝えようとしてきているのかが分かると最後は気持ちで通じ合っていることの勢いで不思議と言葉が次々とでてくる。

そして友達同士の間でつながっているものはお互いの感情と心を動かされるものを共有すること。 そしてシンプルな一言に落ち着かされる。 例えば"とにかく楽しんでやったきな!!” とか”休養も仕事のうちだからゆっくり休め”などなど。

海外生活を支えた私の原動力は音楽を学びたいという気持ち。そして日々の生活のあれこれについて互いに励ましあってきた友達だったというとこに他ならない。

 
 
 
 
 
2011年8月21日                                                                               
 
  
心と体のストレッチ

 
今朝、起きると腹部の筋肉が痛くなっている。少し考えてから、これは昨日行ったピラテスのクラスで普段鍛えていない筋肉を動かしたからだと気がついた。
週1回、私はヨガ教室に通っているのだが、昨日はそのスタジオで特別に全てのクラスがお試しできるという催し物が開催されていたのでそれに参加した。
スタジオ内では、各セラピーもお試しで、鍼灸、マッサージ、カイロプラティクなどが無料で体験できるようになっていた。

ピラテスとヨガのクラスを両方試した後、新鮮なフルーツや、豆のサラダなどを試食していたら隣に座ってきた人が質問をしてきた。
何年間ヨガをやっているのか、今日のセッションはどう思ったかなど。

そこでそういえばヨーガをはじめて5年くらい経つことに気がついた。きっかけはあまりはっきり覚えていないがダンサーの友達からストレッチを教わっていた頃、私が体が柔らかいから何かやったらいい、と薦めてくれたからだったと思う。

ヨガのクラスが始まる前は大抵”今日は疲れているからほどほどにしておこう”と思うのだが、息を深くとって他の事は何も考えずに体の線が真っ直ぐになっているかと意識しているうちに不思議と元気 になってくる。

ヨガの進行も最初はゆっくりと、そして次第に止まることのない動きが始まる。同じ動きの繰り返しのところでは”早くこのシリーズ終わらないかなー辛いし,,.。”と思うのだが、この繰り返しこそがエネルギーを蓄えていく鍵なのだと後でいつも感じる。ただし、やるなら伸ばすところはしっかり伸ばす、支えるところはきっちり支えないと返って本来持っているエネルギーを逃してしまうのである。

絶え間ない動きの後は、深いストレッチがはじまる。全身で息を深くとるように、そして本来自分の持っている体の線を活かすように各ポーズはデザインされている。
自分のその日の体調が体の筋を延ばすことで分かるときがよくある。先生に体の向きを正しく直してもらうと全く違ったセンセーションを感じる。

そしてバランス。余計なことを考えているとふらつくのでイライラしているときはとてもやりずらい。
逆立ちは怖くてきっと私には向いてないなどど考えていたら、あなたなら出来るわよ、と先生に言われて"そうか"と楽天的になったとたん、いつの間にか逆さになっていた。

レッスンの終わりのほうで、床に寝ながら首の筋を伸ばしたり、お腹を床につけるストレッチをしているときは血のめぐりがよくなっていくのを感じる。
終わったあとはもうこのままここで布団に入れたらどんなに幸せかと思う。

ヨガ教室は教会の礼拝のような感じがするのは私だけだろうか。一人一人自分に向かってその日の授業のタスクをこなすのだが、隣には同じように頑張っている人がいてその人たちからのパワーをもらったりお互いに力と心も共有しているところが。

帰りに地下鉄に乗って帰る道のりは、人ごみにのまれてまた現実に戻されていくような感覚がする。雑踏の中をかけぬけていく人々にヨガを勧めたくなるくらいである。

 
     
                                  
ハムステッドヒースのお気に入りの散歩道
 
 
 
2011年8月19日

GP通院物語  


ロンドン遠泳生活2日目で早速小波にさらされた。ここ2日間くらい耳の奥が少し痛む。そこで医者に行った。
イギリスでは医療は基本的に無料である。GP (General Practice ) といって国民は税金を払っていることによって治療を受けることができるのだ。

診察室に入ると、インド人系イギリス人と思われる女性のお医者さんは開口一番に”この間のめまいはその後よくなったの?”と私に聞いてきた。

実は、4週間前に日本に戻る前日、ひどいめまいに襲われ、必死の思いで病院に行ったのだった。
生まれてはじめて味わった頭のふらつきと胃の気持ち悪さのコンビネーションは立っていることさえ辛かった。
通常徒歩5分のところ倍くらいかけてやっと病院についたとたん、どこかに横になりたい気分に襲われた。
GPの受付で、”自分がこの病院で誰よりも重い病気にかかっています!”という顔をして”とにかく寝て待たせてくださいー”とお願いした。
しばらくしてお医者さんが診察室まで行きましょう、と声をかけにきた。どうしても立てない、と訴えかけると、まず、”妊娠の可能性はないの?”と聞かれた。なんでこんな時にそんな質問をするのだろうと不思議に思いながら”全くありません。”と答えた。


診察室に入って診察されているときも気持ちが悪くてずっと下を向いて話を聞いていたせいか、また質問された。”あなた、避妊についてはちゃんと考えているの?” 
もう、話をするのも辛いのにと思いながら  ”そんな必要はないです、だって身に覚えがないので、大体今の私は、、!” というと ”分かったわ” といわれた。

あとの質問は半分聞いていて半分聞いていないような感じだった。結局、三半規管に何らかの異常があることが分かった。
診察の後も横になってしばらく休んでいたので黒人女性の受付員が心配して代理で処方箋を持って近くの薬局まで買いに行ってくれた。

GPに行くと大抵の場合、よっぽど目に見えるような重傷でない限り、薬も出さないし、しばらく様子をみて悪化するようならまた来なさいと言われる。
今回の耳のことも少し炎症しているようだけどこういうことは自然に治ることが多いからリラックス、と対応された。
でも、めまいになった時に病院から私が家路に無事たどりついたかどうか電話をかけてくれたりもする人情深い職員もいたりで、不思議なところである。

私が思うに体がとにかく休みたがっっているときにこのような症状が起こる。日本への飛行機も逃し、私に与えられた再出発までの5日間の休養の意味は、きっとこの一年間の疲れをただじっと寝ることで癒すことだったのかもしれない。それから今度本当にお医者さんが繰り返し質問してきたことが原因で今回のような症状が現れた時にパニックにならないで対応できるための予行練習だったと思うことにした。


 
 


ロンドンのフラットにて
 
 

2011年8月17日          
スーツケースと私


この夏の日本滞在も終えようとしている最後の夜、私はいつものように寝る寸前まで荷物をまとめていた。
いつの頃からか大体スーツケースの重さが目分量で予測できるようになってきた。
もしかしてこれは過去の経験(一度荷物が重すぎて空港のチェックインのカウンターでスーツケースを公然とお披露目するはめになった。)によるものかもしれない。
思えばロンドンから東京へ行ったり来たりをはじめてもう12年になる。
大荷物との移動は楽ではないがコレなしには生活できない。ロンドンへ行くときの20キロほどの荷物は私の活力の元を運ぶ大事なお供なのだ。
(実はほとんどが沢山の日本の貴重な食材達、紹介すると沖縄黒糖、日高昆布、はと麦茶、蓮根のど飴、無添加のお味噌 などなど)
 
 
13時間のフライトの後、荷物を解いてスーツケースをしまうと、しばらく岸辺でのんびりしていた日本の生活から、またイギリスでの遠泳をスタートするような気分になった。
 
 


家の庭に咲いている椿